大根と王妃 (王宮編) 第30話
「海璃……」
「果竪、一緒に死んで」
クスクスと笑う海璃の刃を無意識に止めていた手に、果竪は力を入れた。
痛みに海璃の顔が歪む。その隙に刃物を取り上げた。
「きゃっ!」
海璃が床に尻餅をついた。
「いた〜い」
悲鳴をあげた海璃を、果竪は静かに見下ろした。
その視線に気づいた海璃が果竪を見上げる。
「ねえ、一緒に死んで」
果竪は拳を握る。
「それは出来ないよ……」
「どうして?」
海璃はキョトンと首を傾げる。
本当に、分らないらしい。
「どうしても」
「私のことが嫌いだから?」
「違う!」
「じゃあ死んで」
嫌いじゃなきゃ出来るよね?
そう言って笑う海璃が刃物を振り上げる。
まるで壊れた人形のようだった。
それほどまでに、孤独は海璃を追い詰めていたのだ。
「海璃……」
「死んで、死んで、死んで、死んで」
「海璃!」
「なんで死んだら駄目なのよ」
「っ」
海璃の声が段々と低くなる。
「誰も待っている相手なんていない。誰も助けになんて来ない」
それは、海璃が封印していた言葉。
「なぜなら誰も私の事なんていらないから、私の事なんて必要じゃないから」
この氷の世界で気の遠くなるほどの時間をたった一人で過ごしてきた。
話す相手も居らず、逃げる事も出来ず、この船に悲劇をもたらした相手と戦ってきた。
「苦しい、辛い、どうして私だけ」
海璃の負の感情が目に黒い靄となって果竪の視界に映り込む。
それは、次第に周囲を覆っていき、果竪の体へと纏わり付いていく。
「辛い、辛い、憎い」
「海璃……」
「誰も私の事なんていらない、欲しくない、必要ない」
海璃が果竪の両腕を掴みニヤっと笑う。
「貴方だってそうでしょう?」
まるで全てを見透かすような瞳に、果竪は息をのむ。
知っている筈がない。
知っている筈が無いのに、海璃は。
「貴方も必要ない存在でしょう?」
夫は、王宮の皆は寵姫を選んだのでしょう?
「――っ!」
貴方が自分の役目も果たせない役立たずだから
まるでそう言われたようで、果竪はよろめいた。
「私も貴方も必要ない。どうせ、帰ったところで厄介者」
海璃はクスクスと笑う。
「厄介者、いらない存在、居るだけで全てを不幸にする」
「あ……」
「ねえ、いらないんだよ」
私達は――
誰からも必要とされていない存在
「一緒に死のう?」
海璃の手が、茫然自失となった果竪の持つ刃物をそっと取った。
それがゆっくりと振り下ろされていく。
必要とされていない存在
そうか……
必要となんて……
ポロリと懐から何かが足下に落ちた。
それは――
カヤに貰った鏡の欠片だった。
それに一瞬だけ映り込んだ見覚えのある姿。
それは……もう誰も居ないからと死を望み、一人崩れゆく空間に残ったあの子だった。
泣いている
縋り付き、泣いている
縋り付いているのは――眠ったままの私?
その時、声が聞こえてきた。
『私にはもう何も残されていないの!』
あの子はそう言って泣いていた。
一人になるのが恐くて、死を望んだ。
それを引き戻したのは――私だ。
『……一緒に帰ろう』
そう言って、死を望んでいたあの子を生かしたのは自分。
私が代わりになるから
私が一緒に居るから
失ってしまった人達の代わりに、共に歩むから
生きよう
そう言って生きる事を選択させた
でも、最後の最後でそれを選択したのは、自分が諦めなかったからだ
絶対に生き延びる
その強い思いが、あの子の死に傾いていた天秤を生きる方に傾けさせた
あの子を生かした
その時点で、自分にはあの子の生を背負う責任が産まれたのだ
望みを強引に変えさせ、生きる事を選択させた
そうして辛くても生きる方を選んでくれた蛍花
なのに今此処で自分が死んだらどうなるのか?
散々偉そうな事を言っておいて、さっさと一人死んで
死ねない
死ねない
絶対に死ねない
生きて戻らなければ――
王妃として、妻としては不要でも、自分を必要としてくれる者達はまだいるから――
蛍花、蓮璋
海璃、ごめん
私は貴方と一緒に死んではあげられない
でも――
「貴方を死なしたりはしない!」
果竪は海璃の足を払う。
「きゃっ!」
カヤのくれた鏡を拾って懐に入れると、果竪は海璃の手から刃物を弾き飛ばす。
「なにをっ!」
「私は死なない」
「っ……」
「でも貴方も死なせない」
果竪は抵抗しようとした海璃を押さえつける。
「離して!」
「海璃、よく聞いて」
「嫌よ!」
「嫌でも聞きなさい!いい?何を言われても私は死なない、死ねないの」
待っていてくれる人がいるから
その言葉に、海璃の瞳から涙があふれ出す。
やっぱり自分だけが独りぼっちなのだ。
「私は生きる。でも、それは海璃も同じよ」
「同じ?」
「貴方も死なせたりなんてしない。私は大事な人をこれ以上失いたくないのっ」
今まで沢山の者達を失ってきた。
死んでいった者達の骸の上を歩いてきた。
そうしなければならなかったから。
そうしなければ生きていけなかったから。
「大切な人?貴方を待ってくれてる人のこと?」
「そう。そして海璃もその一人だよ」
「え?」
「ここで出来た私の大切な人なんだよ、もう。海璃がなんて言おうと」
大切な人……
そんな事、初めて言われた。
「だから絶対に死なせたりなんてしない。一緒に生きるの。一緒に此処から出よう」
蛍花達のところには戻る。
でも、海璃をこのままにはしておけない。
「果竪……」
「苦しかったよね、恐かったよね」
「…………」
「私なら耐えられなかった、ここで独りぼっちなんて」
耐えられる筈がない、耐えられない、絶対に
けれどそれを必死に耐え続けてきた海璃
「あの人を失った後も、ずっとずっと一人で頑張って……」
あの人……そう、あの人を助けたくて頑張ってきた
逃げろと言ってくれた
最後まで守ってくれた人
あの人が愛する人は別に居るけれど
たとえ同情からだとしても、自分を……
その時、海璃は思い出した。
あの、最後の――
―――――っ!
その時、海璃の全てを支配していたものが、悲鳴を上げながらはじき出された。
ギャァァァァァァアアアア!
「っ?!」
黒い靄が苦しみ、悲鳴を上げる。
「あれはっ!」
「下がって果竪」
そう言うと、海璃は鈴を取り出す。
それを、横に振る。
リーーン
リーーン
靄が絶叫する。
思わず耳を塞ぎたくなるようなそれは、正しく断末魔と言うに相応しい。
やめろおおぉぉぉ!
眠りなさい
深く、深く、この氷の下で
鈴の音と悲鳴がせめぎ合うように鳴り響き
終には、鈴の音だけが残った
封じ込めた
これで起きているのは、自分と果竪のただ二人――
「海璃」
それまで黙って事を見ていた果竪が、手を差し伸べてきた。
「一緒に、行こう」
「……果竪」
全てを見ていて、それでもなお伸ばしてくる手
離さないから――
そうして繋がれた手。
だが、海璃の手がその感触を感じることはなかった。
最初に気づいたのは、海璃だった。
なんで……
繋いだ筈の手はただ空気だけを掴む。
海璃は果竪へと視線を向けた。
その姿が、大きく揺らぐ。
一瞬だったが、海璃は悟った。
その時が来たのだと。
恐れていたその時が。
リーン
鈴が、なった。
「え?え?え?!」
果竪が驚いて両手を見れば、自分の掌がどんどん透けていく。
掌を通して、床が見える。
「な、なんで――」
「時が来たんだよ」
「海璃?」
海璃は笑っていた。
だが、それは初めて出会った時のようや優しい笑顔だった。
「ありがとう、果竪」
「海璃、私は」
「大切な人、なんだよね?私」
「あ、当たり前じゃない!」
「そっか……」
その眼差しに、海璃は微笑んだ。
大切な人、大切な存在。
そう言ってくれた初めての友達。
果竪も気づいた。
これは、もしや戻ろうとしているの――蛍花達の所に。
だが、そうなると――
「か、海璃、貴方もっ」
どんどん透けていく体。
でも、それは自分だけ。
自分だけがこの世界から消えようとしている。
海璃を残して――
「一緒に、私と、一緒に」
一緒に生きると約束した。
なのに宣言してすぐにこんな事になるなんて
お願い
もう少し、せめて海璃だけでも――
「行って」
「海璃?」
海璃が笑う。
「貴方を待っている人達の所に、帰らなきゃ」
とても短い時間だった。
それは一時限りの出会い。
最後まで迷惑をかけてしまったけど
「ありがとう、果竪」
「いや……やだ、やだやだやだあ!」
海璃に手を差し出す。
だが、手首から先は既に消えていた。
「ごめんね……」
「海璃……」
「大切な人って言ってくれて嬉しかった」
「やだよ……」
「私、負けないよ」
泣きじゃくる果竪を海璃はしっかりと見つめた。
「負けないよ、絶対に。たとえ一人になっても」
再び孤独の時間は近づいている。
孤独が、それによる恐怖が、忍び寄る。
でも――
「頑張るから」
本当は取りたかった手。
でも、その手を取ってもし一緒に行ったら、自分は寂しくなくなるかも知れない。
けれどこの船はどうなってしまうのか。
あの人が、命を賭けて眠らせてくれた場所。
ここを離れるという事は、この場所を、ここにある命を見捨てると言う事。
あの人は許してくれるかもしれない。
海璃は自分の持つ鈴を見る。
あの黒い靄を倒した後に、一度だけ鳴った鈴。
その時に聞こえてきた。
君も共にいきなさい
聞こえてきた、あの人の声。
決して幻聴なんかではない、久しぶりに聞いた優しい声だった。
共にいきなさいは、行きなさいなのか、それとも生きなさいなのか
でも……どちらでも良い
そう……そんな優しい人だから
海璃は決めた。
此処に残る。
果竪と共に行くことは出来ない
ありがとう果竪
貴方は与えてくれただけじゃない
私のするべき事も思い出させてくれた
果竪と一緒に行きたかった
でも……あの人を残してはいけない
今も一人で戦ってくれてるあの人を
私も支えたい
生きる事は苦しい事ばかりだった
でも、生きていたからこそ――
果竪と出会えた
それは生きていたからこそ出来た事
もしかしたら、この先も生き続けていたら、変わるかも知れない
この閉ざされた世界すらも
そして……あの人を、この船の人達も
それには、此処に残らなければ
残って、封じなければ
だから……行けない
海璃は自分に伸ばしてくる果竪の手をただ静かに見つめた。
大切だから取らない
変えたいから、共に行かない
「果竪……」
「海璃っ」
「貴方に会えて良かった」
海璃は笑う。
最後の顔ぐらい、笑顔で覚えていて欲しかったから。
「頑張るから」
そう言ってハラハラと涙を流す海璃に、果竪は叫ぶ。
「会いに行くから!」
「え?」
「絶対に、絶対に会いに行くから!」
それは未来に向けた約束
神だからこそ、出来る事
まだ何も終っていない
それを終らせるために――
「果竪、私」
「だから待ってて!絶対に此処から助け出すからっ」
消えていく
それでも自分に向ける強い眼差しに、海璃は涙を流しながら頷いた。
「待ってる――」
待ってるよ
だから、また会おうね
消えていく果竪に向けた最後の笑顔だった。