Chapter.6
まだ体がふらふらする。
しかし頭の痛みは減り、香奈は美鈴に手を繋がれながら通学バスから降りた。
運転手の校長や他の生徒達が口々に気遣う言葉をかけてくれたから、よっぽど顔色が悪いのだろう。
それほどあの恐ろしい夢は香奈を衰弱させた。
あの鼻の曲がる様な臭気が全身に絡みついているようだ。
ふと、肉の焼ける音と匂いが蘇り吐き気がこみ上げてきた。
「香奈、やっぱり帰った方が良くない?」
「大丈夫」
そう――大丈夫。
取り返しの付かなくなる前に夢から覚められたのだから。
と、先程の夢を思い出す。
あの恐ろしい視線に身動きを封じられた自分を助けてくれた声。
カイセンヲキレは、回線を切れという事だろうか。
何度も警告したそれは、力ずくであの夢から自分を引き剥がしてくれた。
最後に聞こえて来た言葉はよく聞き取れなかったが、何処かで聞いたような気が――。
しかし、あまりにもあの夢の光景が強すぎて、言われた言葉も声の記憶も消えていく。
と、その時腹部を中心に襲った感覚に、カクンと膝から力が抜けた。
「香奈?!」
そのままペタリと道に座り込んだ香奈に美鈴が悲鳴をあげる。
「ちょっ! 大丈夫?!」
「か、かか、香奈ちゃん?!」
梓と理佳も駆け寄ってきた。
「何処か休める所」
「……すいた」
「は?」
聞き返した美鈴に、香奈が答えた。
口では無く、お腹で。
グギュルルルルと大きな音が鳴り響く。
「……お腹減った」
「……」
「……」
「……」
「死ぬ。マジ死ぬ。そこの駅横のスーパーで売ってる定価80円の特大コッペパン食べないと死ぬ。食べたら復活出来る」
「香奈の元気の源やっす!」
悪かったな。
「RPGのポーションより安いわね」
おいおい、RPGと現実世界の通貨単位は違うだろ。
「こ、コッペパンだね!」
「マーガリンと小豆のね~」
めっちゃ元気じゃん!!
美鈴と梓の突っ込みは気にせず、香奈はふらふらと近くバス停のベンチにごろりと横になる。
が――。
「うわっ! あちちちちあつぅ!」
今日も気温は軽く三十度越え。
カンカン照りの太陽による直射日光を浴び続けたベンチに座れば当然そうなるだろう。
馬鹿だ。
学校の机の時と同じ事をしている香奈に、梓は溜息をつき理佳は苦笑したのだった。
「とりあえず、駅構内のベンチで休みなさいよ」
買い出しはこっちでしとくからと提案する梓だが、ベンチの暑さに飛び跳ねている香奈には聞こえるわけもなく。
香奈は強制的に首根っこを掴まれて駅構内へと投げ込まれたのだった。
「じゃあ、美鈴。香奈についててあげてね」
「了解~」
「死んじゃう」
「ならお握りで我慢してよ」
「……」
ぷいっとベンチの上で寝返りをうつ香奈に梓を青筋をたてる。
スーパーには香奈の所望するパンはなかった。
だから代わりにお握りを買ってきたが、香奈はショックを受けてふて腐れた。
そしてパンパンあまりにも煩いから、梓はパンを買いに行くことにしたのだ。
そう――。
『うっさいわね! なら、私の家の御用達高級パン屋から買ってきてあげるわっ!』
因みにその台詞の後、香奈は梓に叩かれた。
というのも、『高いお店って量が少ないし』と本音を暴露したからだ。
そうして頭に大きなコブをつくった香奈はベンチに沈み、美鈴と一緒にお留守番となった。
「けど、高級パン屋じゃなくてもいいんじゃない?」
「どうせ椿にも何か持って行くつもりだったし、丁度いいわ」
「いや、そうじゃなくて」
このお金持めと美鈴が苦笑する。
「理佳、行くわよ」
「う、う、うんっ」
そうして二人は駅を後にし、目的の店へと向かった。
パン屋は、駅前近くのショッピング街の中にあった。
ショッピング街は一昨年からオープンし、「高くてもいいものを」をコンセプトに、本物志向の高級店が連なっていた。
一般市民が多く住む郊外ではあるが、近くにお金持ちや名家の子息令嬢達が多く通う超名門校がある事もあり、客足も順調だという。
また私立という事で遠方の学生が多い反面、以外にも郊外に住む学生達も比較的多く、そんな彼らは一般住宅地との間を流れる大きな川の向かいに構えられた高級住宅地に住みつつ、ショッピング街のお得意様となっていた。
しかも最近は、そのショッピング街にしかないブランドに興味を示した都心からの金持ち客も大勢来るようになっていた。
特に今日は金曜日という事もあり、どの店にも多くの客の姿が見えた。
また、客達を待つ運転者付きの高級車が店内前の道路にずらりと並んでいる。
普通であれば路上駐車として警察に検挙されそうだが、路上駐車可能な様に最初から道路整備されている事もあり、その手の心配はここがオープンしてから一度もなかった。
それを尻目に、梓と理佳は目的のパン屋へ向かって幅広い歩道を歩き続けた。
「ってか、香奈もパンパン煩いんだから」
歩きながら先程のやりとりを思い出す梓だったが、ふと横で理佳がくすくすと笑っているのに気付いた。
「な、何よ」
「あ、い、いや」
「言いなさいよ」
気になるじゃないと言えば、理佳が視線を彷徨わせる。
だが、一睨みすれば観念したように口を開いた。
「あ、梓ちゃん、嬉しそうだから」
「……は?」
予想外の答えに梓がパカンと口を開ける。
「き、気付いてない? わ、笑ってるの」
ギョッとして思わず顔に手を当てる。
「う、嬉しくてたまらないって、感じ」
「な、何言うのよ」
と、理佳がふにゃっと笑う。
「か、かか香奈ちゃん達と、なな仲直り出来て良かったね」
「な――っ!」
「か、かか、香奈ちゃんのおかげで、美鈴ちゃんとも仲直り出来て……あ、ああ梓ちゃん 落ち込んでたし」
「そ、そんなわけないじゃないっ!」
理佳を怒鳴りつけるが、顔に熱が集まっているのはごまかせない。
だから、理佳を置き去りにするように早足で歩く。
「ま、待って梓ちゃんっ」
照れを隠す様な梓を理佳は慌てて追い掛けた。
そのおかげもあり、パン屋へはいつもより早く辿り着く事が出来たのだった。
「た、たくさん、人がいるね」
「金曜日だしね」
外からでも大賑わいは一目瞭然。
しかし、梓は圧倒される事なく店へと突入した。
パンの焼ける良い匂いが梓達を包む。
途端にお腹が小さくなり、空腹感が増していく。
「た、たた、高いね」
「高級だし」
と言いつつ、梓はトレイにポイポイとパンを載せていく。
「今日は私の奢り。理佳も好きなのを選びなよ。美鈴はアップルパイに目が無かったわね」
「え、で、でも」
「いいから早く!」
梓の剣幕に追い立てられるように理佳が慌ててパンを選び出す。
「えっと、えっと」
優柔不断な面もあり、中々選べない。
美味しそうな焼きそばパン。
カリッと焼かれたカレーパン。
ほんのりと甘いメロンパン。
「え~と、え~と」
「買えば良いじゃない」
全部買っていく梓に、理佳が慌てた。
一個五百円もする様なパンなのだ。
三個買ったら千五百円である。
「梓ちゃん、おちついてっ」
「私はいつも落ち着いてるわ」
「で、で、でもお金」
「あ~、大丈夫よ。それぐらいなら貰ってるから」
今日の朝もテーブルの上に置かれていた封筒には、このパン代の数十倍のお金が入っていた。
中学生の一日のお小遣いが十万円。
有り得ない金額をポンッとおいていく両親を思い出し、梓は嘲笑した。
いつもいつも仕事で忙しく、愛情とはお金を与える事だと思っている両親だった。
抱き締める代わりにお金を、会話の代わりにお金を、側に居てくれる代わりにお金を。
学校の行事どころか、具合が悪い時も両親が側に居てくれた事は殆ど無かった。
そして毎朝、今日も遅くなることを詫びる手紙と共にお金がおいてあるのだ。
お金持ちで良いね――。
確かに良いだろう。
お金がなければ生活出来ない。
けれど……。
「梓ちゃん?」
「……他に買う物がないなら、レジに行くよ」
「あ、う、うん」
飲み物はさっきスーパーで買ったから、パンだけを持ってレジへと並んだ。
「六千八百円です」
「ろ、ろろろろ六千――」
「理佳、煩い!」
さっさとお金を払ってパンの入った袋を受け取ると、理佳の手を掴んでパン屋を出て行った。
「早く戻りましょう」
店が混んでいたせいで思ったより時間がかかった。
時計を見れば三十分も経っている。
「もう二時過ぎたのね」
「い、いいい急がないと――」
その時だった。
クラシックの曲が理佳の鞄から聞こえて来た>
「携帯?」
「あ、お母さんだ」
理佳が慌てて携帯電話を取り出すと、通話ボタンを押した。
「は、はい。あ、うん。え? 今居るところはショッピング街……うん、え? わ、わかった」
「理佳?」
携帯を切った理佳が申し訳なさそうに顔を歪める。
「お、お母さんから、おおお使い頼まれた」
「お使い?」
「う、うん。この先にある、書店で、注文した本を持って帰ってって」
「この先――ああ、あそこか」
数件先に目的の本屋は見えた。
「先行ってとってきなよ」
「う、う、うん」
「外で待ってるから」
そう言うと、理佳が本屋へ向かって走り出した。
が、五メートルほど進んだところでボテンと転ぶ。
「……」
泣きそうになりながら立上がった理佳に、梓は溜息をついた。
膝がすりむけている。
「絆創膏も買うか」
丁度自分の隣にドラッグ・ストアがある。
大きな声で理佳にストアに寄ることを告げると、梓は店内へと入っていった。
ウィーンと音を立てて開いた自動ドアを潜り抜けると、涼しい冷房の風が吹き付けてくる。
思ったより暑さが応えていたらしい。
汗を拭いながら、心地良い風にホッとしながら絆創膏売り場へと向かう。
「これでいいかな」
防水加工のものを選びレジへと向かう。
が、その途中で梓はあるものを見つけた。
「……」
香奈が近頃好んで食べるお菓子だった。
細い体をして食欲魔神。
絶対に神無家のエンゲル係数は高いと周囲が心配するほど食べまくる。
なのに肥らない体は梓にとっては自分に挑戦しているとしか思えない。
一体何処でカロリー消費をしているのか。
「……」
気付けばお菓子を手に取っていた。
「……まいっか」
ついでに冷やせばしゃりしゃりアイスになる棒状のジュースも手に取る。
椿の家の冷蔵庫で冷やさせて貰えば良いだろう。
「って……私も甘いわね」
ふっと笑う梓だが、その笑みは嘲笑の類ではなかった。
と、その時店の入り口から激しく言い合う声が聞こえてきた。
「だから、私は悪くないって!」
「な、なによ! そっちが悪いんでしょう!」
入ってきた数人の女子高生。
そのうちの二人が喧嘩している事にはすぐに気付いた。
どちらも意固地になっているのか、友人達に宥められても激しい言い合いが止まらない。
けれど――。
「もうっ! いい加減にしてよっ!」
一人の友人の怒声に言い争っていた二人がビクリと体を震わせる。
「で、でも」
「別にそんなのどうでもいいじゃない!」
「そ、そんな事ないよっ!」
しかし、その怒声をあげた友人はとにかく口が回るらしく、ほどなく二人を仲直りさせてしまった。
そうして店を出る頃には、また仲の良い様子で店から去って行った。
ふと、理佳の言葉が蘇る。
『か、かか香奈ちゃん達と、なな仲直り出来て良かったね』
そう――確かに良かった。
『香奈ちゃんのおかげで……』
そう――香奈のおかげだ。
出なければ、自分はかけがえのない友人を二人も失っていた。
先程の女子高生達の喧嘩。
止めに入っていた女子高生が香奈とだぶる。
梓はけんかっ早い。
そしてその矛先は大抵香奈と美鈴だ。
しかし、相手が香奈の場合は喧嘩が長引く事は少なかった。
というのも、香奈がすぐに手を差し伸べてくれるからだ。
意地っ張りで謝る事が出来ない梓に香奈は自分から謝る。
そうして梓が仲直りしやすい方向に持って行ってくれるのだ。
美鈴と喧嘩した時も、大抵香奈が間を取り持ってくれる。
今回のように。
梓ははぁぁと大きく息を吐く。
理佳が言ったとおり、梓は今回の香奈達との仲違いを気にしていた。
いや、後悔していた。
自分が悪いのは分かっていた。
もともと機嫌が悪かったなんて言い訳にもならない。
典型的なお金持ちの我が儘娘と言うように、自分の意見を押し付けて断られれば思い切り罵った。
これで嫌われないわけがない。
しかも、梓は言ってしまった。
あんたなんて特別な筈がない――と。
香奈が悪いわけではない。
しかし、香奈はあの桜子と仲が良い。
自分が望んでも決して手に入らないものを手に入れた美しい少女。
梓が必死に努力してきた事が馬鹿らしくなるほど、何でも簡単にできてしまう恵まれ過ぎた存在。
気付けば桜子に関わるものまで忌避するようになり、それは今年の春で更に強さを増した。
そして――。
その怒りと悔しさ、嫉妬が下地となっていた。
それが何時もなら聞き流せる事も聞き流せなくなり、今回のように香奈を罵る原因となった。
自分が悪いのだ。
凄惨な事件への不謹慎な発言をしたのは自分だ。
けれど、香奈の言い方に下がった怒りの沸点は敏感に反応し、それがあの女を思い出させた。
桜子――。
梓が決して乗り越えられない、完璧な少女。
一瞬、香奈に桜子が重なり、気付けば言葉を止められなかった。
香奈を罵りながら、自分は桜子を罵っていた。
桜子が憎い。
桜子が腹立たしい。
これはただの嫉妬だ。
桜子には桜子の苦労がある――そう思っても、今までの事を思えばあっけなく理性が崩れていった。
そんな風にして、自分の感情一つ制御出来ない未熟な自分。
その未熟さが、今回の件を起こした。
しかも冷静さを取り戻した後も、高すぎるプライドが邪魔をして謝る事すら出来なかった。
悪いのは自分。
なのに自分から謝れないプライドの高さが腹立たしく、その怒りが更に香奈達への理不尽な罵りへと変わっていった。
ああ……今回こそもう駄目だ。
香奈達を罵倒しながら思っていた。
いつも思うが、今回はその比ではない。
絶対にもう駄目だ。
普通に考えれば、あれだけいつも自分に振り回されているのだ。
理不尽な事を言われて、理不尽な事をされて。
もう今回の事は決定的だ。
誰も居ない所で涙を流して後悔するも、やはり謝罪は出来なかった。
どうして自分はこうなのだろうと、何度自己嫌悪に陥ったか。
だから……今回の事は本当に梓にとっては僥倖とも言えた。
でもすぐに差し伸べられた手に縋れず、また憎まれ口を叩いてしまった時には死ぬほど後悔した。
けれど一度出た言葉はなかった事に出来ず、今度こそ駄目だと覚悟した。
確かに香奈達が椿の事に関して自分と意見が違った事には怒りを覚えもした。
なぜなら、椿とは友達だから。
友達が困っていたら何を置いても助ける方を選ぶのが当然だと思い込んでいた。
もちろん香奈も美鈴も助ける方を選んだ。
しかし、梓のやり方にはついていけないと言われて、ただでさえ低くなった怒りの沸点は過剰なまでに反応した。
どうして分かってくれない?
友達を何が何でも助けたいと思うのはおかしい事なの?
一が駄目なら全て駄目。
そんな考え方は、断られた事だけに注目させ、梓の身勝手な怒りをかきたてた。
でも――今日、香奈が言ってくれた。
『どうして私がそんなおかしな犯人の為に、友達を喪わなければならないの?』
そう……自分の案は危険すぎると、ようやく、納得出来た。
遅すぎる、頭の悪い自分。
いや……何処かでは分かっていたのかもしれない。
けれど……否定された事がショックで、認められなかったのだ。
どうしても……どうしても、認められなかった。
他の人から見れば酷く馬鹿らしく、幼稚な考え。
愚かなただの我が儘娘。
でも、それが梓なのだ。
そうやって生きてきたのだ――この十二年。
培ってきた考え方はそう簡単に変えられず、梓は香奈達に酷い事を言い続けた。
見捨てられてもおかしくない。
だから、両親だって自分を見捨てるし、あいつも――。
投げつけられた言葉が脳裏によぎり、梓は首を振った。
もう……いいのだ。
理人の事なんて。
今更なのだ。
もうとっくの昔に見限られている。
でも……香奈達だけは。
差しのばされた手を、梓は必死に掴んだ。
こんな自分を受け入れて、美鈴とも仲直りさせてくれた香奈はきっと掛け替えのない存在なのだ。
椿も理佳も、香奈も美鈴も。
我が儘で意地っ張りな自分の宝物。
そう……これだけは手放せない。
「だから……いいのよ」
香奈達がいる。
それだけでいい。
『そんなに意地を張ってばかりだと、大切なものを失いますよ』
理人の言葉を思い出す。
まるで全てを分かっているかのような言葉。
それがまた腹立たしくて、酷い言い合いをした。
いや、一方的に自分が罵り続けた。
分かった様な事を言わないで――。
結局は、自分の手で大切なものを遠ざけているのだ。
両親も友人達もそう。
そして……理人に対しても。
『大切なものを失いますよ』
言われなくたって分かっている。
だって自分はもうとっくに沢山のものを失っているのだから。
「はい、千五百円になります」
レジに商品を持って行き、お金を払って袋を受け取りながら梓はふっと自分を嘲笑う。
いつからこうなったんだろう。
いつから。
ドラッグストアを出ると、一気に熱風が全身を襲う。
それに軽い目眩を覚えながら、本屋の前までいけば理佳はまだ店内に居るのが見えた。
どうやら店員が商品を渡すのに手間取っているらしい。
仕方ないな――そう思い、中に入ろうとした時だった。
視界に見覚えのある黒ベンツが止まるのが見えた。
と、本屋の隣にある宝石店で止まったベンツの扉が開き、三十代中頃の高級ブランド服に身を包んだ女性が出てくる。
そして中から誰かを引張りだそうとしていた。
「さあさあ! 早くおいでなさいな理人さん」
「叔母上、別に今でなくても宜しいのでは? 今はその様な時間はないと思いますが」
「何を言うのです! せっかくまとまった話なのですよ! 理人様にとって大切なお方にプレゼントの一つや二つ贈らずしてどうするのです! それぐらいの時間は許されて然るべきですわ!」
聞こえて来た声に凍り付く梓の前に、ベンツからその相手が出て来た。
半ば女性に引きずり出されるようにして出て来た一人の少年に、その場は騒然となる。
女性も美しいと言えたが、少年の美しさに比べれば金メッキで誤魔化された美しさだ。
偽物には決して越えられない、本物だけが持ち合わせる美。
対極的な二人に、誰もが目を奪われる。
いや、実際に周囲が目を奪われたのは、美少女コンテスト荒しと恐れられた美貌の母にうり二つの少年の方にである。
「なんで……ここに」
茫然と梓は呟く。
月曜日の社交界のパーティーで見たのが最後だったその美貌は、あれから数日しか経ってないのに更に磨き抜かれた気がした。
どちらかと言えば母の方が鮮やかで上品な赤牡丹、息子は春風にほころぶ清楚可憐で儚げな白牡丹として、社交界では有名だった。
幼い頃は美少女にしか見えなかった美貌は、十二となった今でもたいして変わらない。
超名門校中等科の制服に身を包む華奢な体も、身長が伸びたぐらいで到底男らしさとは無縁だった。
あれほど騒がしかった場が何時のまにか静まり返っていた。
と、艶やかな黒のミディアムヘアーを揺らしながら、その黒炭の瞳がすっと梓へと向けられる。
途端にギョッとした表情に変わるが、それは梓もお互い様だった。
しばし見つめ合う。
まるで自分達しか居ないように、互いに信じられないものでも見るかのように。
理人と、梓は小さく目の前の少年の名を呟いた。
幼い頃からの幼馴染みの名。
それが聞こえたのだろうか。
理人の瞳が微かに揺らいだ。
しかし言葉は出ず、梓もそれ以上何も言えずただ無言の時が過ぎる。
いつまでも続くように思えた……二人だけの時間。
だが――ほどなく少年の付き添いである女性の甲高い声によって、その時間は終わりを迎えたのだった。
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