第五章−3
「すいませ〜ん」
調理室の扉を開けると、そこは色々な意味で戦場だった。
「ぐ、ぐぇぇぇっ」
「うおっ!ぐはぁぁ!!」
「ゲボゴホッッッッ!!」
筋肉ムッキムキないかにも海の男という風貌の料理人達が船酔いしていた。
しかも洗面器に大量に嘔吐していた。しかも締め切ってたせいか、匂いがこもっており思わず貰い吐きしかける。
(さ、さっき漂ってきたあの悪臭ってまさかこれ?)
両手で鼻を塞ぎながらそう思う。
だが、何か違うような・・・さっき嗅いだ匂いは魚が腐るような腐臭であるが、今漂う匂いは酸っぱいような匂い臭いである。
・・・・・・うん、やっぱりさっきの臭いとは違う。
と、料理人の一人が私に気付き声をかけてきた。
「ど、どうしたんだ?夕食はまだだが」
比較的船酔いが軽いその料理人は私を客だと思ったのだろう。
夕食まで待ってくれと言う彼に、私は自分の素性を説明した。
「あぁ、あんたかい。海での拾いものは」
「は、はい。もう一人いるんですが・・その、出来ればお茶の葉と・・食べ物を何か分けて貰いたくて」
お金は後できちんと支払いますと言うと、料理人が笑った。
「別にそれは気にしなくていいさ。怪我人から取る気はない。けどな・・・お茶はいいとして、食べ物はちょっと無理そうだ」
調理室の中を見回し、こんな状態ではなと彼は言う。
料理人達はほぼ全員使い物にならない状態だった。
話では、このままでは夕食すら準備出来ないかもしれないとの事。
因みに、昼食も握り飯とかそういう簡単なものを何とか出した程度だという。
おかげでお客からは大ブーイングが発生したとか・・。
「夕食まで後2時間ぐらいなんだが・・もう作り始めないと間に合わないがこれでは」
到底料理など出来る状態ではない事は一目瞭然であり、このままでは夕食はなしという状況に陥ることは必死だった。
頭を悩ます彼に私は思わず言っていた。
「あの・・もし良ければ私が何か自分で作りましょうか?」
「え?」
一体何を言い出すんだと言わんばかりの彼に私は自信満々に言った。
「大丈夫です、私こう見えても料理は得意なんでvv」
冷蔵庫から野菜を取り出しまな板の上に置く。
それを包丁でざくざく切っていき、油の引いたフライパンでもって炒めた。
あっという間に出来上がった野菜炒め。
他にも、鶏の唐揚げやら焼き飯やら沢山の料理がテーブルの上へと置かれていた。
全て私が作ったものだ。
船酔いが軽くなってきた料理人達が目を丸くしていた。
「凄いな・・見た目も味も抜群だ!!」
味見をした料理人達からお褒めの言葉を頂き私は笑った。
「ありがとうございますvv」
本来なら到底素人の私が此処で料理など出来なかったが、料理人達が重度の船酔いで全く仕事が出来ない事が功を奏した。
人間体調が悪いときは弱気になる。言い方は悪いが、そこにつけ込む形で何とか説得すると、料理人達は顔を見合わし、
取り敢ず自分の食べる分を自分で作るならと言ってくれた。
流石に他のお客の分までは任すと言ってくれなかったが、それでも私が蒼麗の為に作った料理を見て、
そして味見した後は打って変わって他の乗客達の分も頼むと言われたのだった。
「いや、こんなに上手いもん作れるとは思わなかったよ!!」
「そうそう!くぅ、うんめぇ〜〜!」
「っておい!!それはもう一人の子の分だろう?全部食べちまってどうするんだよ!!」
気付けば蒼麗の為に作った料理の大半が彼らの胃袋に消えていた。
「うわわ!ごめんよ〜」
「いえ、それより船酔いの方はよくなってきたみたいですね」
「ああ、何だかすっかりよくなっちまった」
ここに来た当初のやつれた様子は全く見えず、それどころか元気がみなぎっている。
とはいえ、船はまだ大きく揺れている。
そんな彼らを此処まで回復させたもの・・・・・それは船酔いの薬だ。
私が料理をすると言った後、一度蒼麗の所に戻った。
料理をする為に少し時間がかかる事を告げるためだ。
その時、調理場の様子も伝えると、蒼麗は最初に身につけていた服から小さな巾着袋を取り出し、
そこからピルケースを一つ出して私に渡した。中身は蒼麗が調合した船酔いの薬であり、
一錠を1リットルの水に混ぜて飲ませれば10分もしないうちに船酔いがよくなる抜群の代物だった。
それを、私は調理室に戻るやいなや料理人達に飲ませたのだ。
はっきりいって藁にもすがる気持ちだったのだろう。酷く揺れる船と相次ぐ嘔吐に辟易した料理人達は
素直にその水を飲み、そして今、彼らは元気を取り戻した。
蒼麗の話では、1日一杯効果が続くという。
「ありがとよ、あんたのおかげだ」
「いえ、元気になって良かったです」
これでこの船の食事事情は改善する事は間違いない。
私は料理人達に笑いかけると彼らがもう少し回復するまで手伝うべく材料を切り始めた。
そうして30分。何とかかんとか料理が出来上がった。
途中からは体調が改善に回復した料理人達も手伝い、全乗客分の食事が完成した。
「ありがとう、お前のおかげで助かった」
料理長と呼ばれる人一倍ガタイのいい男の人が笑いながら言った。
「けど、すまんな。もう一人の子の料理を全部食べちまって」
結局、蒼麗に持って行く分は全て料理人達に食べられた私は明日の朝食の分がなくならなければ
好きに材料を使っていいとのお達しで、もう一度料理を作ることとなった。
「いえ、もう一度作ればいいんですから」
とはいえ、最初に比べて限られた材料しかない。
食材はある程度余裕を持って積み込まれてはいるが、何が起きるか分からない海の上で無駄には使えない。
しかもこんな台風の中を進んでいる船のならば余計に節約しなければ。
私はさっきの調理で余った野菜屑を見る。
よし、これを使うか。
包丁で野菜屑を更に細かくみじん切りにし、炊きあがってほかほかのご飯と炒める。
そこに卵を落として更に中華鍋を振るって焼き飯を作った。
最初に作ったものとは豪華さは違うが、味は保証する。
その上に、片栗粉と醤油、その他調味料で作った熱々のアンをかけた。
「次はスープと」
鍋に水を入れ、鳥の骨を入れて強火にかける。
その間に必要な調味料を取り出す。
「流石だね〜〜、何処でそんな料理の腕を鍛えたの?」
「母が体が弱いんで、何時も私が料理を作ってたんですよ」
「へぇ〜、そうだったんだ。きっとお母さんもとても喜ばれただろうね」
「ええ、何時も何時も美味しいって言いながら食べてくれます」
私がご飯を作る時は特に嬉しそうにしながらご飯を食べてくれる母の笑顔が嬉しくて、またその笑顔見たさに料理する。
私の趣味が料理となったのも、そんな家族のおかげである。将来旦那様や子供には勿論私の手料理を披露するつもりだ。
『美味しいわ、華依璃vv貴方の作る料理は私にとって何よりのご馳走よ』
母の笑顔が脳裏に浮かび私は思わず頬を綻ばせた。
と、その笑顔に誰かの笑顔がダブった。
え?
母の笑顔に重なるように、笑うその少女。
逆に母の姿がかき消え、少女だけが残る。
少女が微笑みながら言った。
『ずっと私にご飯作ってねvv』
そして少し頬をふくらませて他の人には作ったらダメ!!と言う少女に周囲から笑い声が漏れる。
誰?
貴方は・・・
「君、君?スープがゆだってるぞ!!」
「え?!きゃっ!!」
慌てて火を止める。あやうく吹きこぼれるところだった。
「大丈夫かい?突然ぼーーとしたが」
「あ、だ、大丈夫です」
「そうかい?ならいいんだが・・」
「すいません、少し疲れたみたいです」
すると、料理人達が一斉に謝りだした。
自分達の変わりに私が料理の殆どをやった事が私が疲れる原因になったと勘違いしたらしい。
それを否定し、私は出来上がったスープを器に移し替えた。
「それじゃあ、蒼麗も待ってるんでこれで失礼しますね」
「ああ、ちょっと待って」
そう言うと、料理人の一人が奥へと引っ込む。
戻ってきた時には、彼の手の中に開封前のドロップ缶があった。
「はい、これあげる」
「え・・でも」
「お礼。他に何かめぼしいものがないかと思ったけどなくてね」
「そんなっ!私のほうこそこの船に助けて貰って、しかもこうしてご飯まで分けて貰って・・・それに出しゃばっちゃって」
「いや、俺達の方こそ船酔いに効く薬も貰って凄く助かったよ。なあ?」
すると、他の料理人達もうんうんと頷いた。
「さあ、友達が待ってるんだろう?早く戻ってやれ」
「なんなら途中まで荷物を持つが」
「いえ、大丈夫です!ありがとうございます」
「気をつけてな・・・所で、君の連れって一人だよな?」
「はい」
「・・・それ、何人前?」
「7人前です。私、人より食べるんで・・・・後でやっぱりお金払います」
そう言うと、私は蒼麗と私の分の焼き飯7人前とスープを持って調理場を後にしたのだった。
「ただいま蒼麗!!」
「おかえりなさい華依璃ちゃん!うわっ重かったでしょう?」
「全然vv」
調理室から慎重に運んできたお茶の葉と料理をテーブルに置くと、すぐにお湯を沸かして急須にお茶っぱを入れた。
その後お湯が沸くと、急須にお湯を入れて湯飲みに注ぐ。
それを蒼麗に手渡し、食事が始まった。
「うん、凄く美味しいvv」
「やったぁvvって具は野菜屑なんだけど」
申し訳なさそうに言うと、蒼麗が首を横にぶんぶんとふった。
「野菜屑でここまでの味を出せるなんて華依璃ちゃんは凄いよ!!ああ、もうほっぺたが落ちうなほど美味しいvv」
「いや、それは褒めすぎだって」
蒼麗も料理はかなりの腕前を持っている。
それに比べれば私の腕なんてまだまだだ。
しかし、パクパクと美味しそうに食べてくれる蒼麗を見ていると、そんな事はどうでも良くなってくる。
照れを隠すように焼き飯をかきこめば、こってりとした焼き飯の味が広がり、それを食欲を増進させるべくいれた梅干しの酸味が
さわやかに包み込み余計な油を切ってくれる。
一口食べる毎に、疲れた体に新たなエネルギーが注がれていく。
そうして一皿目をペロリと平らげると、二皿目に手をつけた。
蒼麗には一応2皿用意したが、残りは全て私の分だ。
二皿目も同じペースで口の中にかきこむようにして食べる。途中スープを飲み、お茶を飲み、そしてまた焼き飯を平らげる。
よほどお腹がすいていたらしい。何時もの食事量よりも少し多めに作ったその料理はあっという間に数を減らしていく。
「か、華依璃ちゃん、少し食べ過ぎじゃない?」
三皿目も食べ終え、四皿目に手を伸ばした時だった。
ようやく一皿目を食べ終えた蒼麗が少し苦笑いしながら言う。
「それ、何皿目?」
「四皿目かな?」
「た、食べ過ぎだよ!!」
「でもまだ腹八分目だし」
私の異常な食欲は未だ満腹を告げていない。
それどころかもっともっとと食べ物を要求する。
「華依璃ちゃん、あんまり食べ過ぎたらダメって聖も言ったでしょう?それにダイエットするって決めたじゃない」
「うっ・・・そんな昔のことを!」
「華依璃ちゃん」
「だ、だってだって!!」
ダイエットをすると言っておきながら、バクバク食べる私に蒼麗が釘を刺す。
「そんなに食べてばかりだと胃が小さくならないからいつまで経ってもやせないよ?」
「・・明日から頑張る」
「ちょっと待って」
「今が幸せならそれでいい!!」
ガッとお皿を掴み口の中に焼き飯をかきこむ。
「んなっ?!ちょっと何その刹那主義!!あぁ華依璃ちゃんストップぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
が、遅かった。
蒼麗が私の手から皿を取り上げた時には、全てのお皿が空となっていた。
お腹をポンポンと叩き、私は残ったスープを一気に飲み干した。
「あぁ・・・全部食べちゃった」
「はぁ〜〜……美味しかったvv
蒼麗が刺した釘はどうやら跳ね返ってしまったらしい。
って跳ね返した私が言える台詞ではない。
「もう華依璃ちゃんってば!!」
「だってお腹すくんだもん」
「だからってあるだけ食べてたら体にも悪いよ?私、もしそれで華依璃ちゃんが病気になっちゃったらヤダ」
「う・・ご、ごめん」
「大変だけど、ちょっとずつでいいから少し食べるの少なくしようよ」
涙目でそう言われると、それ以上私も何も言えない。
しかも蒼麗は私のためを思っていってくれているのだから、余計に罪悪感が込み上げる。
「・・わ、わかった。次の食事はもう少し少なくする」
「良かった・・」
ほっと息を吐く蒼麗に、本当に心配させていたのだと少し反省した。
けど、言ったはいいものの、本当に次の食事を少なく出来るのか………考えものである。
「さて、食器とかを返しに行かないと」
「あ、私も一緒に行く。お世話になったしお礼もいいたから」
「でも体調は?」
「大丈夫、結構よくなったからきゃっ!」
船が大きくドンっ!と揺れた。
蒼麗がバランスを崩し、床へと倒れ込む。
「蒼麗っ?!大丈夫?!」
体を強かに打ち付けた蒼麗が痛みに呻く。
なるべく体に負担をかけないように抱き起こすと、蒼麗が痛みに顔をしかめた。
「立てる?ベットに座った方がいいわ」
「ご、ごめん・・今のは一体なんだったのかしら?」
「分からない・・・座礁したのかなぁ?」
しかし、此処は海のど真ん中。座礁するとは考えにくいが。
となれば、何かにぶつかったのか?
と、また揺れが起き、私達は慎重にベットへと腰を下ろした。
シャアアアアという微かな音を耳が捉える。
「碇」
「え?」
「碇が降ろされたみたい」
私の言葉に、蒼麗が口元に手を当てた。
そしてしばし二人で見つめ合う。
床に落ちた円錐型のお茶缶が船の振動にあわせてコロコロと転がった。
どんどん酷くなっていく雨と風は容赦なく船を揺らし、大波と格闘していた連絡船はその場に碇を降ろして停船する事になった。
そう説明してくれたのは、医務室へと戻ってきた医師だった。
「船長が言うには、台風通過後の余波じゃないかって言うんだ。で、それが治まるまで少し此処で碇を降ろしてやり過ごそうって事らしい」
戻ってきた医師は何処か不安そうな面持ちだった。
因みに、看護師さんは客室で具合を悪くした人がいるとの事でそちらに出払っていた。
「風と雨が思ったよりも酷くてね。もしかしたら台風が近くを通過してて、こっちが風下なんじゃないかって」
「このままでは転覆する恐れもあるとか」
「いや、それはないだろう。もしそうだとしても、救助船があるし・・・」
因みに今フェリーがいる場所は、丁度北の大地と南の大陸の中央部分だった。
今、船員達が港と連絡をとりながら対策会議を開いている。
だがその間にも船は大きく揺れ、今にも転覆しそうだった。
(このまま留まる方がやばいんじゃ)
私はそう思うと、医師に向かって言った。
すると、医師は予想外にも同意してくれた。
「ぼくもそう思う。進むにしろ戻るにしろ早くしないと大変な事になりそうだ。たぶんそれはあいつにも分かってるはず」
「あいつ?」
「ああ、ここの船長はぼくの従弟なんだよ。25になる若手船長。まあ一種のエリートかな」
「あの、その人に御願いできませんか?留まるのをやめて早く進むようにって」
「う〜〜ん、素人のボクがいってもなぁ・・・今、他の船員達と一緒に対策を立ててるだろうし」
「でも、このままだとやばいと思います」
「うん。下手したら水が入ってきそうだし」
「水?」
すると、医師が話してくれた。
実は、この船――今乗っている連絡船の車両渡船というタイプのものらしい。
そしてそれには、船として決定的な弱点があると医師は言った。
それは船尾に貨車積み込みのため大きな口が開いていることである。
つまり、開きっぱなし。
幾ら海面から高い場所にあるからといっても開きっぱなし。
海水入ってくるじゃんっ!!
「ど、ど、ど、どうしてそんな造りをしてるんですっ!!」
普通、蓋はきちんと閉めておくべきだろう!!
私の住んでいる場所の港に入ってくる船は全てきちんと密閉されている。
「いや、だってそれが普通だし」
「海水が入り込む造りが普通ですか?!」
すると、医師は首を横に振った。
「いや、それが案外大丈夫なんだ」
普通なら、誰もが大波が来たらここから海水が浸入すると考えそうだが、意外にもそうでもなかったという歴史があるらしい。
そもそも、車両甲板は喫水線から2メートル近く高い場所にある。
停泊中は船は波と共に上下に動くために海水が入ることは考えられず、航行中も大波に持ち上げられたあと、
船尾が水中に没しても車両甲板までは沈まなかったから、せいぜい入口のあたりが濡れる程度でしかなかったとか。
追い波にも船の速度が勝ったため車両甲板に波が打ち上げることもなかったという。
・・・だからか!!この日和見的態度は!!
「まあ、例外もあるよ。今まで1,2回ほど海水が入ったけど」
しかし、それでもすぐにその海水は外に出て行き事なきを得たとか。
しかも、そんな状態にみまわれた船もきちんと無事に港に帰還し、死傷者もなかったから大した問題にはならなかったという。
だが、前が良くても次がいいとは限らない。
「何そんな悠長な事言ってるんです!!前は確かにそうでも、今回がそうとは限りません!!
今すぐとっとと船を港に戻して下さいっ!!」
「え、いや、だから」
「やりなさいっ!!」
それは出来ないと言う医師に、私はカッと目を見開き強く言った。
その有無を言わせない様子に、医師がハイっ!と敬礼し、船長の下へと走ったのだった。
15分後。医師が戻ってくる。
医師は船長には会えなかった。
対策会議で立ち入り禁止だった為、丁度部屋を出てきた3等航海士の一人に事情を話して船長を呼んでもらおうとしたのだが、
何を馬鹿なと笑われ、戻されたのだと申し訳なさそうに説明してくれた。
「いや、船の事は船長達が一番だからね」
「一番だからじゃないですっ!!」
先程よりも船は揺れている。
早くしなければ船は確実に沈む。
それはもはや予感ではなく確信だった。
「けど、部屋には入れないし」
困り顔でそう医師が言ったときだった。
扉をノックする音が聞こえ、すぐに慌ただしく扉が開いた。
入ってきた人物に、医師が驚きの表情を浮かべた。
「船長」
「おいおい、確かに俺は船長だが、お前にそう呼ばれるのは何だか気持ち悪いからやめてくれ」
そう言うと、船長と呼ばれた男性が私の前へと歩き、止まった。
見上げると、船長の視線とぶつかった。
「っ・・」
船長さんの表情が変わる。
まただ
船長さんの顔に、まるで化け物でも見たかのような・・・・初めて医師が私を見た時と同じ表情が浮かぶのを見て私はハッとした。
その表情はすぐに消えたが、続いて何処か此方を探るような眼差しが向けられる。
何か気に入らない事でもしてしまったかのとも思ったが、眼差しには敵意も怒りも含まれておらず、ただ必死さが伝わった。
だが、それもすぐに消えてなくなる。そして少し気落ちしたように目を伏せた。
一体どうしたんだろう?
どうして、医師と同じように私を見て驚いたの?
けれど、それを問う前に船長さんが顔を上げた。
「あ、あの」
「君が言ったんだって?早く進まないと沈むって」
その台詞に、どうして私を見て表情を変えたのかと問いかけるチャンスを失った。
「あ、あの・・・・・そうです」
船長さんは私が医師に告げた事の理由を聞いている。
今はまずそれについて話さなければ。
私は後できっと聞くチャンスはあるだろうと、先にそちらに集中した。
「どうして?」
「この船の造りです。船尾に貨車積み込みのため大きな口が開いていると聞きました。この高波です。確実にそこに水が入ってきます」
「しかし、今まではその水は全て外に出ていた」
「例え出たとしても、すぐに新たな水が入ってきます。船を傾けるほどの高波なんですよ?出て行く量よりも
入ってくる量が増します。それらがもし機関室に流れ込んだら蒸気はなくなり船は確実に止まります」
「家は造船業かい?」
「親戚が船に関わる仕事なので」
これは嘘だった。
だが、こうでも言わないと決してこの船長は動いてくれないだろう。
私は死にものぐるいで説得を続けた。
そして
「船長!貴方にとって一番大切なことは航海を順調なものにする事ではなく、乗客乗員の全員の命を守ること。
危険に晒すことなく、港に無事に送り届けることではないんですか?!」
「っ!」
まるで強い衝撃が加わったかのように、船長が目を見開く。
「・・そうだな」
「三津木・・」
医師が船長を呼ぶ。それが彼の名らしい。
「すぐに船を進めよう」
「御願いします」
「大丈夫なのか?」
「勿論、お前にも来てもらうさ。我が船の1等航海士どの」
「え?」
「おいっ!!」
「かの有名な船長の子供にして一等航海士のくせして医療を志した変わり者。別にお前の道を否定するきはないが、
今だけは手伝ってもらう」
「何かあったのか?」
「余りの船の揺れに何人かが使い物にならなくなった。人手が圧倒的に足りない」
「やばいな」
「ああ。だからすぐに来てくれ」
そう船長さんが言った時だった。
私の横に座っていた蒼麗がいきなり立ち上がる。
「蒼麗?」
突然のことに呆然としながらも呼びかける。
けれど、蒼麗は何の反応もしなかった。ただ、厳しい目つきで虚空を睨む。
「お友達はどうしたんだ?」
船長さんが質問するが、私にも分からない。
その時だ。
本当に小さな音を私の耳が捕らえた。
コォォォォォというもの凄く小さな音。
最初は船の音かと思ったが、それとは何処か違う気がする―――え?
「音が・・・」
さっきよりも音が大きく聞こえる。
というか、どんどん近づいているようだった。
「どうかしたのかい?」
医師が不思議そうに聞いてくる。
どうかしたって・・・
ゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ
その音はすぐ間近で聞こえた。
しかも、音の中に混じる
・・・ア・・・・・・ゥア・・・・
禍々しい声が何を言っているのか分からない。
けれど・・・もの凄く嫌な予感がした。
私は一刻も早く此処から逃げたくて叫んでいた。
「今すぐこの船を動かして!!」
「え?」
「早く!!早く動かしてっ!!」
もどかしい気持ちに苛立ちさえ覚える。
上手い言葉が見つからない。けれど、早く此処から逃げたい!!
終に私は絶叫した。
「今すぐ此処から動いてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
医師と船長さんが驚いたように目を見開くのが見えた瞬間、船がドンっと大きく揺れた。
悲鳴が耳を貫く。それは私のか、それとも他の人のものか。
まるで船の底を何かが突き抜けたかのように床が跳ね上がり、私は後ろへ吹っ飛んだ。
背中を壁に叩付けられる衝撃に鋭く息を呑む。
ずるずると壁をずりさがっていくが、最早なすがまま。
蒼麗達は大丈夫だろうか?
しかしもう確かめている余裕はない。
痛みに呻きながら、薄れていく意識の中で私は部屋の明かりが消えるのを見た。
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