第六章−5



「そ、それ・・・」


この船に来た時のように化け物を倒して来たのだろうか?
いや、違う。蒼麗がゆっくりと近づいてくるにつれて薄暗い中でもはっきりとそれに気付いた。


そう、それこそが違和感の正体だったのだ。

「近づかないでっ!!」

私の激しい拒絶に蒼麗が再び首をかしげた。


どうして?

そう呟いた口元にベッタリとついたそれは・・・真っ赤な鮮血。

「どうして?」

蒼麗は再度聞いた。

「華依璃さん、走れますか?」
「三津木さん」
「どうして?華依璃。近づかないと出来ないじゃない?」
「・・・・・・・」
「そうだよ。近づかないと・・・あんた達を食べられないじゃないっ!!」

蒼麗が包丁を振り上げながら此方に走ってきた。

「やめろ!景の姿を借りた化け物がっ!!」

え?

三津木が蒼麗の包丁を鉄パイプで受け止める。

「どけぇぇぇ」
「黙れこの化け物っ!!よくも人の弟に化けやがって!!」
「え?!それって蒼麗ちゃんじゃ・・」

そこで気付く。
もしかして、私と三津木さんでは見えているものが違うのではないかと。
私は蒼麗、三津木さんは景さん。
相手によって見えている者が違う。

つまり、これは・・・

「きゃはははははははははははははは!!」
「ちっ!」

繰り出される攻撃を三津木さんが次々とはじき返していく。
その鋭い刀裁きに三津木さんがかなりの使い手だと思われた。

「三津木さんっ、少しの間耐えて下さいっ」
「華依璃さんっ?!」

私は赤ちゃんをしっかりと抱きかかえて走り出す。
目標は、偽物の蒼麗が入ってきた扉の外。

「っ!そこだぁぁぁぁっ!!」

扉を開けたすぐ横。何もない壁際。しかし、まるでそこに物があるように蹴り上げる。
すると、脚に確かな物のぶつかる衝撃を感じた。



鋭く上を見ると、空中に舞い上がったそれが見える。



香炉。それは与えられた衝撃によってひび割れ、そして砕け散った。
中に入っていた香の砂が周囲に飛び散っていく。




「やっぱり!!」





飛び散った砂から香る甘い香り。
それは、先程蒼麗が現れる前に嗅いだあの香りだ。



ふと視界を白い物がかすめる。
ヒラヒラと舞い散るそれを受け止めた。


「影形の札・・・これのせいで見えなかったのね」


それは、護符を扱う者達ならば誰もが知る姿隠しの札だった。
張ればあっという間にその姿と気配を消すことの出来る代物であり、主に隠密関係の任に着くときに使われる。


札の後ろに微かについている香炉の破片。
この事から、香炉に張られていた事、そしてこれが張られていたせいで香炉の姿が見えなかったのだと確信した。



「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


闇を切り裂くような悲鳴に振り向けば、蒼麗に扮した化け物が苦しむ姿が見えた。


いや、既にその姿は蒼麗とは似ても似つかない異形な姿へと変貌を遂げている。


変貌を遂げているというのは少し違うかも知れない。


本来の姿そのままを私達が視認出来るようになったという事だ。



「な、なぁぜぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「まさかこんなものが化けていたとはな・・・」
「違います」
「華依璃さん?」
「それは化けていたわけではありません。最初からその姿で私達を襲ったんです。私達が勝手に別の相手として見ただけ」


「え?」


「これ」


私が差し出した影形の護符を手にとった三津木さんが驚いたように私を見た。


「これは・・」
「これが、ある香の砂を煎れた香炉につけられていました。香の砂は『幻覚の砂』。その香を嗅いだ者にとって、今一番会いたい存在を他者に映し出す危険な代物です」
「つまりその匂いを俺達は嗅いでいたと」
「はい。ですから、私と三津木さんでは見えたものが違ったんです」
私の場合は蒼麗、三津木さんの場合は景さんが見えた。
「・・華依璃さんは」
「私は蒼麗です。三津木さんは景さんですよね」
「ああ。だが、何故こんなものがここに」
「私も分かりません。ただ、あの化け物に関係するものではないかと」
「・・華依璃ちゃんはいつ?」
「あの偽物の蒼麗が現れる直前、甘い香りを感じたんです」


あの香りには覚えがあった。
錬金術というか、物作りが大好きな蒼麗は何時も何かしら物を作っていた。
あるとき、蒼麗が一つの香の砂を作った。
それこそ、『幻覚の砂』と言われる代物。
本来の目的はそれではなく、その代物から放たれる香の効果を無効化するお香を作る為に作り出された。
その際に、その匂いをよく嗅いでいたのだ。


ただ、よく嗅いでいたとはいえ、何十年も昔の事だからすぐには思い出せなかったが。


「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」



蒼麗の偽物が悲鳴を上げている。
三津木さんの鉄パイプによって縫い付けられた体を苦しそうにバタバタさせている姿は醜悪ささえ感じられた。


ふと、化け物の目が三津木さんの持っている護符をとらえる。

「それぇぇぇぇかぁぁぁぁぁぇせぇぇぇぇぇぇえ」
「何ですって?」
「それぇぇぇぇぇおれがぁぁぁぁあもらあぁぁぁぁぁたぁぁ」

三津木さんの目が見開き、私は息をのんだ。

「これ、あなたのなの?」
「おれぇぇぇぇぇぇわたしぃぃぃぃぃいもらったぁぁぁぁぁぁぁ」
「誰にっ?!」
「もらったぁぁぁぁぁぁぁそれあればぁぁぁぁぁぁぁたらふく食えるって」
「だから誰に?!」
「だぁぁぁぁあれぇぇぇぇぇぇそぉぉれぇぇぇはぁぁぁぁぁ」

それは一体誰なのか?
もどかしさに駆られながら私は化け物からもたらされるその情報を聞きだそうとした。

「あれぇ?」

突然化け物がそう呟く。
次の瞬間、その巨大な体が膨れあがり


「華依璃さんっ!」


三津木さんが私と赤ちゃんを守るように抱き締める。
その腕の隙間から私見た。


まるで風船のように膨れあがったその体がボンっとはじけたのを。


化け物の体液や血が辺りに飛び散り、散らばる肉塊の生々しさに吐き気が込み上げた。


「手元が少し狂ったようですね」


聞こえてきたのはとびっきりの美声。
艶を含んだそれは、聞く者全てを虜にするかのような色香すら匂わせる。


「あら?貴方三津木ではないの?」
「・・・洪凛様?」

三津木さんの声にひかれるようにして顔を上げれば、宙に浮かぶ一人の女性――それも、目も覚めるほどあでやかな絶世の美女が見えた。


薄紅色の衣を上品かつ優雅に着こなし、豊かな黒髪は綺麗に結い上げられ白い花飾りで止められていた。
長い睫毛に縁取られた瞳は聡明で理知的な光を宿し、すっきりとした鼻梁はまるで神の絶対的な調律の元に作られたかのように完璧だった。
薔薇の花弁の如き赤い唇はまるで誘うように濡れ、何処か背徳的な感じさえする。
また、一見華奢に見えるものの服の上からでも分かるその豊満な肢体は蠱惑的で女性美溢れる曲線を見事に描ききっている。
 だが何よりも素晴らしいのはその内面。
容姿の美しさもさることながら、立ち居振る舞いも気品にあふれ、この世のものとは思えない――天女を見ているかのようだ。

「貴方、一体誰を抱いているの?」
「え、あ」
「もしかして貴方の彼女?……それにしては貴方とは雲泥の差がありますね」


女性の言葉に私は身を縮込ませた。


それは、今まで何度となく聞いてきた蔑みの言葉。

「この船の生存者ですか?」
「いえ、違います。彼女は私達と同じ種族の者です」
「種族?けど、まだ子供じゃないの」
「そ、それは・・確かに子供ですが」
「どうした?」


新しく聞こえてきた声に、三津木が更に慌てるのが感じられた。

「空嵯様っ?!」


ドクン


心臓が大きく波打つ。


空・・嵯・・?



「な、何故此処に」
「何故も何も、私が寵姫を一人で外に出すと思うか?」


威厳に満ち溢れた美声に私は吸い寄せられるように顔を上げた。




三津木の体の隙間から、洪凛と呼ばれた女性を愛しそうに抱く一人の青年が
目に入った。


その美貌は、洪凛と呼ぶ女性の隣に立っても何ら見劣ることのないほど。
その上、まるで女性と見間違うかの如き美しさであった。
項でまとめられた青く長い髪。
同じ色の睫毛は密な上に長く、その下の澄んだ空色の瞳に光を添えていた。
すっきりとした鼻梁の下の唇は薄紅で厚すぎず薄すぎず、これまた絶妙な形をしている。
しなやかに伸びた手足を持つ長身の体は何処か中性的ながらも必要な筋肉はしっかりとついているのが服の上からでも簡単に見て取れた。


艶やかながらも清楚な美しさを感じさせる洪凛と共に立つ姿はそれこそ極上且つ絶景というべきものだった。


彼らよりも美しい人など・・・あの、蒼麗の家族や幼馴染み達しか知らない。
って、あれは化け物並みの美しさと完璧さだが。


しかし、見取れている三津木とは違い、私の中に彼らを称賛する心はなかった。


それどころか、強く拍動する心臓の鼓動に苦しさを覚える。
何故だろう?今すぐ此処から離れなければとさえ思う。


「ん?三津木、その娘は?」
「あの、この子は」
「私達と同族なんですって」
「同族?それが何故此処に。しかも子供じゃないか」
「私もそれについて聞いていましたの」
「三津木、何故子供が此処に居る?」
「実は、少し事故がありまして」
「事故?」
「はい。此処に来る前に俺が乗っていた船で拾い上げた子です。海に浮かんでいたんです」
「はぁ?」


洪凛と呼ばれた女性が素っ頓狂な声を出す。


「浮かんでいたって・・」
「私達もまだ詳しい事は聞いておりません。ですが、この方は那木様と椎木様の知り合いの子で」
「あのツインズの?」
「はい、名は」


私の名が告げられようとした






「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!」






ただただ叫ぶ。
けれどそれは私ではない。
私の中に宿る別の何かが、全てを拒絶するように絶叫した。






三津木さんが何かを叫んでいる。

洪凛と呼ばれた女性が目を見開き、彼女を守るように腕に抱き締めた空嵯が






ドクン




ドクン






『ねぇ、まだ思い出さないの?』







「っ?!」








脳裏に響く声に私は叫んだ。



「ちがうっ!!私は華依璃よぉっ!!」


全身全霊の叫びが口をついて出る。
涙が頭を激しく振る私の瞳から飛び散り、宙を舞う。



そして瞳が、空嵯を捉え



「・・・海璃?」



ああ、また私をそう呼ぶのね?


それを最後に私の意識は途絶えた。